第四回 弥生時代〜中国との関係の始まり〜
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出展:http://y-ta.net/gishi-wajinden-2/
「読むだけ日本史」の第四回目を始めていきます!
前回は、金属器の伝来から争いの勃発までをやりました。縄文時代と比べ弥生時代は様々な変化が起こりました。
その変化のポイントが、受験では試験に出やすいポイントなのでしっかりと覚えておきましょう。
では、第四回目では中国との関係をやっていこうと思います。
- 本格的な稲作の開始
- 金属器の伝来
- 争いの勃発
- 中国との関係の始まり
日本の歴史は中国の資料から学ぶ
弥生時代の日本には、文字がなかったためこの頃の日本の歴史については、中国の歴史書が頼りになります。
ちなみに、以前発掘作業から歴史を解明することを考古学と言いましたが、今回のように資料から歴史を解明することを文献史学といいます。
さて、中国の資料で弥生時代に書かれている歴史書は3つあります。
この3つの歴史書の内容が重要となりますので、しっかり覚えておいて下さい。
うろ覚えで申し訳ないのですが、センター試験などではそれぞれの歴史書に書いてある内容やその時の日本の状態を問う問題が多かったような気がします。
では、それぞれの中身について観ていきましょう。
『漢書』地理志の内容とその頃の日本
『漢書』地理志は、1世紀ごろ「前漢(ぜんかん)」の時代に書かれた歴史書です。 前漢とは、その頃、中国を収めていた国のことですね。
前漢の前は「秦(しん)」という国が収めていたのですが、無理な政治体制などからわずか15年で滅びたと言われています。
また、観光スポットで有名な「万里の長城」もこの時代に作られたという説もあります。
では、漢書地理志の中身を観ていきましょう。
夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり
分かれて百余国と為(な)る
歳時(さいじ)を以(もっ)て来たり献見(けんけん)すと云(い)う
出展:「漢書」地理志
1行目
【漢字】
楽浪:中国の楽浪郡
倭人:日本人
【意味】
楽浪郡の海の向こうに日本人が住んでいる。
2行目
【漢字】
百余国:100あまりの国
【意味】
100あまりの国に分かれている。
3行目
【漢字】
歳時:貢物(みつぎもの)
献見す:定期的に
【意味】
貢物をもって、定期的に挨拶にくる
まとめてみましょう。
漢字の意味さえ分かれば、簡単ですよね。
この頃の日本は、高地性集落などができ始めた時代であることを覚えておきましょう。
『後漢書』東夷伝の内容とその頃の日本
中国を収めていた「前漢」が滅びると、次は「後漢(ごかん)」が中国を収めます。
『後漢書』東夷伝は後漢の時代に書かれたものなので、『後漢書』という事を覚えておいて下さい。
さて、この歴史書には、紀元1世紀〜2世紀の日本について書かれています。
内容を見てみましょう。
建武中元(けんむちゅうげん)二年、倭の奴国(なこく)、貢を奉じて朝貢(ちょうこう)す"使人(しじん)自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極(はて)南界なり。光武、賜(たま)ふに印綬(いんじゅ)を以(も)ってす。安帝(あんてい)の永初元年(えいしょがんねん)、倭国王帥升(すいしょう)等、生口(せいこう)百六十人を献じ、請見(せいけん)を願ふ。桓霊(かんれい)の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐(あいこうばつ)し歴年主なし。
1行目
【漢字】
建武中元二年:西暦57年(1世紀のことです)
倭の奴国:日本の奴国という国
朝貢す:貢物をもって挨拶にくる
【意味】
西暦57年に日本の奴国が、貢物をもって挨拶にきた。
2行目
【漢字】
使人:使者
大夫:中国でいうところの大臣
【意味】
使者は自分のことを大臣といい、日本のは南の果てにあると言った。
3行目
【漢字】
光武:後漢の王様の光武帝
印綬:金と組紐
【意味】
光武帝は、金と組紐を使者に与えた。
4行目
【漢字】
安帝の永初元年:西暦107年
帥升:日本人の名前
生口:奴隷
【意味】
西暦107年。帥升という人物は、奴隷160人を献上し、安帝に会えるようにお願いした
5行目
【漢字】
桓霊の間:「桓帝、霊帝」の時代(146年〜189年)
倭国大いに乱れ:日本で争いが起こり
暦年主なし:長年国を治める者がいなかった。
長くなりましたので、まとめましょう。
- 西暦57年に日本の奴国が、貢物をもって挨拶にきた。
- 使者は自分のことを大臣といい、日本のは南の果てにあると言った。
- 光武帝は、金と組紐を使者に与えた。
- 西暦107年。帥升という人物は、奴隷160人を献上し、安帝に会えるようにお願いした。
- 桓帝、霊帝の時代に、日本で争いが起こり長年国を治める者がいなかった。
1世紀から2世紀は、鉄製農具が広まり始めた時代ですよ。
さて、3行目にある光武帝から渡された印綬。これは中国の役人が持っていた印鑑のことです。すなわち、これを渡されたと言うことは、中国の役人であることを認められたということです。
ちなみに、「 漢委奴国王(かんわなこくおう)」と掘られた金印が福岡県の「志賀島(しかのしま)」で見つかったのですが、この時の印ではないかと言われています。
『魏志』倭人伝の内容とその頃の日本
3世紀になると、中国では「後漢」が滅び、三国時代に突入します。三國無双などをプレイしている人には、馴染み深い「魏(ぎ)」「呉(ご)」「蜀(しょく)」の時代ですね。
さて、この頃の日本は、この三国の中の「魏」と交渉を持ちます。だから、「魏志」倭人伝の内容が日本に伝わるのです。
この頃の日本を治めていたのは「邪馬台国(やまたいこく)」です。そのトップが、みなさんもご存知の通り「卑弥呼(ひみこ)」ですね。
1つ前の『後漢書』東夷伝に倭国大乱という言葉が入っていたと思いますが、これを納めたのも卑弥呼です。卑弥呼は宗教的な力を駆使し争いを納たとされています。この力を「鬼道(きどう)」と呼びます。つまり、呪術のことです。
先程、邪馬台国は魏と交渉権を持つと書きましたが、この理由がわかるでしょうか?
この時代、日本よりも中国の方が位が高い、強い国でした。ですから、邪馬台国としては日本を納める上で、バックアップが欲しかったのだと仮定することができます。
現代で言う、不良が喧嘩に負けた時に「俺のバックには〇〇さんがついってんだからな」と言った感じでしょうか。
また、この時代中国大陸でも三国で争いをしています。ですから、日本が魏の下っ端になってくれるのは都合が良かったんですね。
さて、魏は邪馬台国と良い関係を築くために、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えます。
さらに、「金印紫綬(きんいんしじゅ)」という印鑑の中でも最も良いもの与え、「銅鏡(どうきょう)」を100枚与えたとされています。
銅鏡と言うのは、鏡のことです。この時代は、川の水に顔を写していたと言われる時代ですから、鏡を貰えるということは、よっぽど期待されていたのでしょう。
卑弥呼の後継者「壱与」の登場
卑弥呼がなくなった後、国を納める王として男の王が立ちます。しかし、この王には、呪術的な力が備わっていなかったため再び、争いが起こるようになります。
そこで、卑弥呼の親戚である「壱与(いよ)」が女王が立ちます。
壱与には、卑弥呼と同じくらいの呪術的な力があったため、国の乱れは収まったとされています。
まとめ
第四回目では、日本と中国の関係について見てみましたが、いかがでしたでしょうか。
勉強して見ると、こんなにも早くに外国との関係ができていたのかと驚かれると思います。
こうしてみると、日本史も面白いものですね。