読むだけ日本史

日本史を学び直したい、社会人や学生むけのサイトです。

第三回 弥生時代〜金属器の伝来と争いの勃発〜

スポンサーリンク  

f:id:le-blog1:20170919231904j:plain

「読むだけ日本史」の第三回目を始めていきます!

前回は、弥生時代の代表的な特徴である「稲作の開始」と、それに伴う道具の変化について見ていきました。

第三回目では、弥生時代のポイント「2番」と「3番」を見ていきたいと思います。

弥生時代のポイント
  1. 本格的な稲作の開始
  2. 金属器の伝来
  3. 争いの勃発
  4. 中国との関係の始まり

金属器の伝来

弥生時代になると、「青銅器(せいどうき)」「鉄器(てっき)」が伝来します。

この二つを金属器と呼び、紀元前2世紀ごろに朝鮮半島から北九州北部にもたらされたと言われています。

「青銅器と鉄器」

漢字だけで見てみると、いまいち何が違うのかは分かりくいですよね。

実は、同じ時代に入ってきた鉄器であってもそれぞれ使用する用途は異なっています。

次は、青銅器と鉄器の違いについて見てみましょう。

 

青銅器と鉄器の違いってなに?

青銅器と鉄器の用途の違いについて確認してみます。

青銅器と鉄器の用途の違い

青銅器:祭りや祭事に使用

鉄器 :農具や武具として使用

青銅器は、お祭り用。鉄器は農具や武具として使用されていました。

青銅器は、鉄器と比べ強度が弱いという特徴があります。

農具や武具は、固いものに対して使う道具なので強度の強い材料を使わないと道具として成り立ちませんよね。

だから、強度の強い鉄器は農具や武具として、青銅器はお祭り用の道具として使用されるようになりました。

 さて、学校で配布される資料集に出くる青銅器ですが、みんな青いですよね?

青銅器という字には「青」が入っていますが、材質自体は「銅」なので、作られたばかりの色は10円玉の新品のような色をしていますので注意して下さい。

 

青銅器ってどんな時に使われていたの?

弥生時代になると、お祭りが行われるようになりました。

お祭りと言っても、当然現代のようなお祭りではなく、神様に感謝するお祭りです。

この時代、重要な食料となっているものが「お米」ですよね?

ですから、稲作を開始する前は豊かな収穫を願って、収穫後はお米を収穫できたことに感謝してお祭りを開いていました。

この時に、使用されていたものが「青銅器」です。

青銅器には

  • 銅鐸(どうたく)
  • 銅剣(どうけん)
  • 銅矛(どうほこ)
  • 銅戈(どうか)

などが使用されていました。

※青銅器の資料は、準備中です。 

争いの勃発

f:id:le-blog1:20170919231911j:plain

各地で稲作が開始されると、争いが起こるようになりました。

「えっ?稲作で食生活が安定してるのに争いが起こるの?」なんて思う人もいるかもしれませんが、実は争いの原因がこの「稲作」にあると言われているのです。

 

争いが起こった経緯

では、どのようにして争いが起こったのでしょうか?

稲作で争いが起こった流れは以下の通り。

争いが起こった流れ
  1. 人工の増加
  2. 領土の拡大
  3. 米の奪い合い

これが原因だと考えられています。

食生活が安定すると、死者が減るため人工が増加します。
人工が増加すると、食料が今以上に必要となるため、田んぼの領土を拡大しなくてはなりません。

領土を拡大するだけなら、まだ良かったのですが。

稲作には大量の水が必要となりますよね?

そうなると、田んぼに水を引き込むために川の流れをせき止めて田んぼに水を流すようになります。

そうすると今度は、河口付近の田んぼには水が届かなくなってしまいます。

水がなければ、稲が育ちませんので稲をたくさん作ってある集落からお米の奪い合いが始まるのです。

 

小国の成立と分立

f:id:le-blog1:20170919231916j:plain

お米の奪い合いが、きっかけとなり各地では集落が結成されるようになりました。

当然、人数が多いほうが戦いに勝利する確率は増えますからね。

また、この時に作られた集落は、防御機能を備えた集落が一般的でした。

この集落を「環濠集落(かんごうしゅうらく)」「高地性集落(こうちせいしゅうらく)」と呼びます。

集落の特徴

環濠集落:集落の周りに深い堀を設け、敵の侵入を遅らせる機能をもつ。

高地性集落:見晴らしの良い丘陵の上にある集落。敵をいち早く発見できる。

 どちらの集落も防御敵機能が備わっている事が分かると思います。

さて、争いが起こると「勝利する集落」と「負ける集落」が出てきます。
勝利した集落は、負けた集落を取り込んで「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりを持つようになりました。

このような、「クニ」が各地で出現したため今度は、「クニ」どうしの対立が起こるようになります。

history-of-japan.hatenablog.com

弥生時代の墓制

f:id:le-blog1:20170919231848j:plain

争いの結果多くの人が、亡くなります。

ここでは、弥生時代の人々がどのような埋葬法やお墓を使用していたのかを見ていきます。

弥生時代のお墓は4つです。

弥生時代で使われたお墓
  1. 甕棺墓(かめかんぼ)
  2. 支石墓(しせきぼ)
  3. 方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)
  4. 墳丘墓(ふんきゅうぼ)

甕棺墓から墳丘墓になるにつれて、規模が大きくなります。

権力による支配が、続き徐々に自分の権力をお墓の大きさでも示したいという思いが募り、徐々に大きいお墓になったようです。

※このお墓の具体的な違いや埋葬方法については別途記事を作成する予定です。

埋葬方法の違いについてですが、縄文時代「屈葬(くっそう)」という死者の身体を折りたたんだ埋葬方法をしたいたのに対し、弥生時代「伸展葬(しんてんそう)」という死者の身体を伸ばして埋葬していた事を覚えておいて下さい。

history-of-japan.hatenablog.com

まとめ

第三回目は、金属器の伝来から争いの勃発までをみてきました。

物事が起こるには理由があります、新しく始まった何か(この時代は稲作)がきっかけで争いが生まれることは少なくありません。

物事が起こった原因を理解していれば、芋づる式に答えを導くことはできるはずです。

次回は、中国との関係の始まりについてやっていきます。

それが完了したら、今度は弥生時代の資料について見ていきたいと思います。