【2/4回】古墳時代の特徴と朝鮮国内の動向
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『読むだけ日本史』の第6回目です。
今日は、古墳時代の朝鮮国内の動向について見ていきます。
中国国内の動向よりボリュームは少ないですが、国の位置や名前を覚えておかないと混乱してしまうので注意しましょう。
※古墳時代は全4回を予定しています。
- 【第一回】古墳時代について
- 【第一回】古墳時代の中国国内の動向
- 【第二回】古墳時代の朝鮮国内の動向
- 【第三回】古墳時代の日本国内の動向
- 【第四回】古墳の種類と特徴
古墳時代の朝鮮国内の動向
出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
朝鮮半島北部には紀元前1世紀ごろから『高句麗(こうくり)』とういう国がありました。
一方、朝鮮半島南部には『馬韓(ばかん)』『弁韓(べんかん)』『辰韓(しんかん)』と呼ばれる小国家群が形成さていきます。
小国家群とは、いくつかの国の集合体という意味。つまり、いくつかの小さい国が集まって一つの国を形成している状態を指します。
上にある朝鮮半島南部の画像を見てみると『馬韓(ばかん)』『弁韓(べんかん)』『辰韓(しんかん)』という国は存在していません。
実は、元々は『馬韓(ばかん)』『弁韓(べんかん)』『辰韓(しんかん)』という国が、4世紀に統一されることで、『馬韓→百済(くだら)』『辰韓→新羅(しらぎ)』という国になるのです。
弁韓は統一国家ではないのですが、弁韓のあった地域を『伽耶(かや)』と呼ぶようになります。
百済から送られた『七支刀』
出展:http://www.isonokami.jp/about/c4.html
奈良県の『石上神宮(いそのかみじんぐう)』には、百済王の大子から倭王に送られたとする『七支刀(しちしとう)』が保管されています。
この刀は特殊な形をしていて、刀身の左右に各3本ずつ、段違いに刃が付けられているものでした。
7つの刃があるので、七支刀と呼びます。
刀身の表と裏には以下の文字が彫られています。
(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作
『□』の部分は、刀のサビを落としている最中に一緒に文字が削れてしまい読めなくなっている部分です。
この銘文からは、369年に百済王から倭王に七支刀が送られたことが、読み取れるそうです。
このことから、百済と日本の間には、何かしらの同盟関係があったと考えることができます。
伽耶に設置された『任那日本府』
720年に作られた『日本書紀』を見てみると、伽耶地方に政治組織である『任那日本府』を設置したと書かれています。
これは、日本が伽耶地域に何かしらの影響力を及ぼしていた可能性を示唆するものですが、審議については、まだ分かっていません。
【1/4回】古墳時代の特徴と中国国内の動向
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『読むだけ日本史』の第五回目は、古墳時代に入ります!
古墳時代は「動乱の時代」と呼ばれ、日本国内だけではなく、中国や朝鮮各地でも争いが起こっていました。
一般的に古墳と聞くと大きい墓をイメージすると思いますが、外国の動向にも注意してみていく必要があります。
それでは、始めていきます。
※古墳時代は全4回を予定しています。
- 【第一回】古墳時代について
- 【第一回】古墳時代の中国国内の動向
- 【第二回】古墳時代の朝鮮国内の動向
- 【第三回】古墳時代の日本国内の動向
- 【第四回】古墳の種類と特徴
古墳時代について
古墳時代は、3世紀中頃から7世紀末までの400年間。3世紀中頃、日本各地に古墳が造営されたことをきっかけに古墳時代が始まります。
この時代も特徴によって「前期・中期・後期」に区分され、石室や古墳の形態が変化してくのを覚えておきましょう。
※こちらの内容については、「【第四回】古墳の種類と特徴」でやります。
空白の4世紀
弥生時代と同様に、この頃の日本はまだ「文字」を持っていませんでした。そのため、日本国内の情報を知る手がかりは、外国の歴史書のみです。
しかし、先程も言ったように古墳時代は「動乱の時代」。
中国、朝鮮国内でも争いが起こっていたため、日本の様子を記録する余裕がありませんでした。
その為、4世紀の日本について知る手がかりはなく、この100年間を空白の4世紀と呼ぶようになりました。
古墳時代の中国国内の動向
弥生時代に栄えた「魏・呉・蜀」の時代に終わりが訪れると、3世紀後半に「晋(しん)」が中国統一を果たします。
この晋は、魏の重臣「司馬炎(しばえん)」によって265年に建てられました。
290年に司馬炎が崩御すると後継者の息子である「司馬衷」が「恵帝(けいてい)」として任命されます。
しかし、司馬衷は知的障害を持っていたため、上手く政治をすることができませんでした。
そこで、ここぞとばかりに権力を狙う皇族の「八人」の「王」が内乱を起こします。これが「八王の乱(はちおうのらん)」です。
力をつけた異民族との争い
八王の乱では、移民族の傭兵を多様していたこともあり、ここにきて異民族は力をつけるようになりました。
八王の乱で内部体制が崩れている所に目をつけ、異民族の「匈奴(きょうど)」が晋に戦いを挑み勝利をします。
さて、異民族との戦いに敗れた晋の多くの人達は処刑されてしまいますが、一部この処刑を逃れた皇族が南へ逃げ延び晋を再建します。
この再建された晋の東西では政治体制が異なっていたため、西を「西晋」と呼び、東を「東晋」と呼ぶようになりました。
五胡十六国時代のはじまり
一方、中国の北部では異民族や中国民族が権力争いを繰り広げていました。この時代を「五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)」と言います。
なぜ、五胡十六国時代と呼ぶのか。
それは、「匈奴(きょうど)」「鮮卑(せんぴ)」「羯(けつ)」「氐(てい)」「羌(きょう)」と呼ばれる5つの異民族が合計で16の国を建てたことに由来します。
『胡(こ)』という字は、中国の異民族を指す言葉なので覚えておくと、暗記が楽かもしれません。
南北朝時代のはじまり
398年に北魏が誕生、「華北(中国北部)」を統一すると、五胡十六国時代に終わりが訪れます。また、中国南部では、東晋が滅ぶと「宋(そう)」という国が建国されます。
その結果、北と南に2つの「国(王朝)」が建国され南北朝時代に入っていきます。
まとめ
今回は古墳時代の中の、中国の動向について見ていきました。中国だけ見ても、様々な争いが起きていたことが分かって頂けたと思います。
次回は、朝鮮の動向について見ていきますので、よろしければ御覧ください。
【弥生時代】お墓の種類と特徴
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「読むだけ日本史」の資料編「第三回目」をやっていきます。
当初は、集落と墓地を1回で終わらす予定だったのですが、分けたほうが良さそうだったのでその様にしました。
では、さっそく始めていきます。
弥生時代のお墓
縄文時代は遺体を直接、土に埋める「土葬」が行われていましたが、弥生時代になるとちゃんとお墓を作って遺体を埋葬するようになります。
これは、自分の権力を自分がいなくなった後世に伝えるためと考えられています。その証拠に、弥生時代前期から後期にかけて徐々にお墓が大きくなっていきます。
それではお墓の種類と特徴について見ていきましょう。
弥生時代のお墓の種類
弥生時代に使われたお墓は多く、覚えるには少し骨がいるかもしれません。しかし、特徴を覚えてしまえば、ある程度対応はできるますので、画像と写真でしっかりと特徴を覚えるようにしましょう。
- 土壙墓(どこうぼ)
- 木棺墓(もっかんぼ)
- 箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)
- 支石墓(しせきぼ)
- 方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)
- 墳丘墓(ふんきゅうぼ)
- 甕棺墓(かめかんぼ)
土壙墓(どこうぼ):弥生時代「前期〜後期」
出展:弥生時代の墳墓と埋葬一覧
「棺(ひつぎ)」を使用せず、土に掘った穴に直接遺体を埋めて埋葬していた。土壙墓は、弥生時代の一般的な埋葬方法で、全期間をと通して日本各地に存在していました。また、縄文時代と違い、弥生時代では遺体の両足を伸ばして埋葬する「伸展葬(しんてんそう)」が多く見られました。
※棺とは、棺桶(かんおけ)のことです。
木棺墓(もっかんぼ):
出展:http://www13.plala.or.jp/adachiitami/newpage12.html
弥生時代の各地で見られた埋葬方法です。長方形の土壙の中に、木製の棺をいれて埋葬していました。木製の棺を使用しているので木棺墓といいます。
箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ):弥生時代「前期〜後期」
箱式石棺墓は、縄文時代から古墳時代にかけて長い間使用された埋葬方法です。画像のように掘った穴に板状の石を四方に敷き詰め、遺体を入れる空間を作ったお墓。
支石墓(しせきぼ):弥生時代「前期〜後期」
大型の平たい石を、小さい小石で支えているのが支石墓です。よく画像を見てみると大型の石の下に穴が空いているのがわかると思います。実は、支石墓の下には、「土壙(どこう)」と呼ばれる穴が空いていて、そこに箱式石棺墓や後ほどでてくる甕棺墓をいれて埋葬をしていました。イメージ的には、土壙墓の上に、画像のような石が載っているといった感じです。
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ):弥生時代「中期〜古墳時代」
出展:行司免遺跡の方形周溝墓群
方形周溝墓は、低く盛り土をした墳丘の周りに溝を掘って、お墓の敷地を区切ったものです。墳丘の中央には、土壙をほりそこに遺体を埋葬します。方形周溝墓は、弥生時代中期から後期にかけて徐々に西日本から東日本に広まっていきました。大きさは10m前後のものが多く見られます。
墳丘墓(ふんきゅうぼ):弥生時代「中期〜後期」
出展:http://mimirappa.seesaa.net/article/314151485.html
墳丘墓は、首長(小国の王)が現れた事を示すお墓だと言われています。その為、高く盛り土をし、お墓の大きさを大きくすることで首長の権力を後世に伝えようとしたようです。方形周溝墓と違い、周りに溝がないことに注意して下さい。ちなみに、次に出てくる古墳は、墳丘墓と方形周溝墓が合わさったものが古墳となります。
埋葬方法:周りに溝はなく、高く盛り土をしたお墓
期間 :弥生時代「中期から後期」
出現場所:九州地方〜東海地方
甕棺墓(かめかんぼ):弥生時代「前期〜後期」
出展:かながわ考古学同好会
地面に土壙を空け、遺体を入れた甕棺を埋葬する。北九州北部に多く、大型の甕棺を使用していた。甕棺の中には遺体の他に副葬品が入れられたものがあり、強力な首長のものだと考えられている。
埋葬方法:甕棺に遺体をいれ土壙に埋葬する。
期間 :弥生時代「前期〜後期」
出現場所:九州北部に多い
遺体と共に埋葬された副葬品
副葬品は、使者を埋葬する際に遺体と共に納める品物の事を指します。全ての遺体に副葬品が納められていたわけではなく、権力をもつ人物の埋葬時に副葬品を納めたとされています。
ちなみに、この時納められたものは使者の日常生活時の愛用品や来世で使うための用品を納めたとされています。
- 土器
- 石器
- 鏡
- 武器
- 農具
弥生時代のお墓の移り変わりをイメージ
ただ単に、丸暗記しようとすると覚えられないので、土壙墓からお墓の移り変わりをイメージしてみましょう。
土壙墓
ただ、穴を掘っただけ。
木棺墓
そのまま土に入れたら可愛そうだから、せめて木の箱に入れてあげよう。
箱式石棺墓
木だと腐って壊れちゃうから、頑丈な石で埋葬してあげよう。
支石墓
権力者のお墓だから、大きな石を立てて目立つようにしてあげよう。
方形周溝墓
権力者のお墓だけど、大きな物は作れないから溝を掘って区画をきめよう。
墳丘墓
溝だと分りづらいから、土をもって大きく目立つ墓を作ろう。
確実に、当時の人はこんなふうに考えてはいなかったでしょうがお墓を覚えるためのイメージとして参考にしてみてください。
【弥生時代】環濠集落と高地性集落の特徴
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「読むだけ日本史」の資料編「第二回目」です。
今日は、弥生時代に出現した「環濠集落」と「高地性集落」の特徴について見ていきます。当初は、この回で墓地の種類についてもやろうと思っていたのですが、分けたほうが良さそうだったので、次回に回しています。
環濠集落の特徴
「吉野ケ里遺跡」写真①
「吉野ヶ里遺跡」写真②
画像は「吉野ヶ里遺跡」の環濠集落です。
環濠集落とは、集落の周りに「掘(ほり)」や「土塁(どるい)」をめぐらせ、敵の侵入を防ぐ機能をもった集落です。
生活を営むことを基準に作られている集落なので、平野部の水田付近に多く出現ししました。
また、写真の2番目にもあるように「深い溝」「土の壁」などを作り敵の侵入に備えています。
環濠集落は、弥生時代の全期間を通じて出現しています。
高地性集落の特徴
写真は「家賀」にある大規模な高地性集落です。
名前の通り「高い」「土地」にある集落なので、「高地性集落」と呼びます。
この集落は、見ての通り「山の山頂部」や「斜面」に作られており、生活の不便さや稲作ができないことから「逃げ城」として使われていたと考えられています。
※「逃げ城」とは、攻撃を受けた際に、村人立ちが逃げ込む防御施設を指します。
また、一説には高地性集落には戦いの痕跡がないため「交易の拠点」として使用されたという説もあるようです。
出現時期は、弥生時代の中期〜後期にかけて瀬戸内海から近畿地方を中心に出現していました。
【弥生時代】稲作の道具と使用方法を紹介
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「読むだけ日本史」の第二回では、弥生時代の稲作とそれに伴う道具の変化について見てきました。
この回では、「弥生時代の資料編」ということで、実際にどのような道具をどうやって使用していたかを、見ていきたいと思います。
また、資料編は全部で2回を予定しています。
ぜひ参考にしみてください。
弥生時代に使用された稲作の道具
弥生時代の「前期」では「木製農具」を使用し「中期・後期」では、「鉄製農具」を使用していました。
木製農具でも、鉄製農具でも道具の形や使用方法についてはほぼ変わらないので、「こんな物を使っていたんだ」程度に見ておいて下さい。
では、稲作の手順毎に見ていきます。
- 耕す
- 種を蒔く(田植え)
- 収穫
- 脱穀
畑を耕す道具
「 鍬(くわ)」
「鋤(すき)」
出展:http://rekitama-wako.jp/database/seisan/nougu/444-0000.php
畑を耕す道具として登場したのが「鍬(くわ)」と「鋤(すき)」です。
土が固いと稲がしっかりと「根」を張ることができないので、これらの道具で土を柔らかくしてから、種をまいていました。
さて、鍬と鋤はどちらも土を柔らかくする道具ですが、どのような違いがあるのでしょうか。
鍬はみなさんも見たことがあるように、頭の上に振りかぶってから地面に突き刺し手前に引くという形で使用します。
一方、鋤はスコップと同じ要領で地面に突き刺し体重を乗せて土を深く掘ります。
しっかりとした使い分けは不明ですが、鍬で畑の表面を耕し、種をまく場所(少し深くしたい)場所などは、鋤を使用したと推測することができます。
収穫の道具
「石包丁(いしぼうちょう)」
出展:http://www.harc.or.jp/what/vol19.html
種まき(田植え)では、目立った道具を使用していないため、収穫の道具を見ていきます。
弥生時代の前期には、石包丁で穂首刈りを行っていました。
石包丁は、画像でも分かるように石で作られた包丁のようなものですね。これを使って稲の「穂」の部分(米のついている部分)を切り取り収穫をしていました。
「鉄鎌(てつかま)」
一方、「中期・後期」では画像のような「鉄鎌」で稲の根っこから切り取る「根刈り」という方法で稲を収穫していました。
みなさんも畑の近くを通った時に、稲を2つに分けて天日干しをしていた光景を見たことがあると思います。
資料が見つけられなかったので、なんとも言えませんが穂首刈りから根刈へ変わった経緯は稲を乾燥させたかったからではないかと思います。
脱穀の道具
「左:木臼(きうす)」「右:竪杵(たてぎね)」
出展:http://www.geocities.jp/shimizuke1955/3630haruhi.html
次は、脱穀の道具に着いてです。
脱穀とは、米を稲から外す作業の事を言います。
脱穀の時に使われた道具が「竪杵(たてぎね)」と「木臼(きうす)」です。
使い方は、イメージできると思いますが、稲を木臼の中にいれて竪杵でゴリゴリと穂の部分を外します。
餅つきをイメージすると分かりやすいかもしれません。
その他の道具
「左・中:大足(おおあし)」「右:田下駄(たげた)」
出展:http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-189.html
次は、稲作をサポートしていた道具について見ていきます。
左と中が「大足」と呼ばれる土の中に、肥料を踏み込む道具です。
右は、「田下駄」と呼ばれる田に足が嵌ってしまうのを防ぐ道具ですね。
どちらも、足に履いて使用をします。
「高床倉庫(たかゆかそうこ)」
出展:http://www.iki-haku.jp/harunotsuji/pho02-03.html
最後に「高床倉庫」です。
稲の保管場所として、みなさんも覚えていると思います。地面より高い位置に床を作ることで、湿気による稲のカビを抑えています。
また、柱のところには「ねずみ返し」と呼ばれるネズミの侵入を防ぐ対策が取られていることを覚えておきましょう。
第四回 弥生時代〜中国との関係の始まり〜
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出展:http://y-ta.net/gishi-wajinden-2/
「読むだけ日本史」の第四回目を始めていきます!
前回は、金属器の伝来から争いの勃発までをやりました。縄文時代と比べ弥生時代は様々な変化が起こりました。
その変化のポイントが、受験では試験に出やすいポイントなのでしっかりと覚えておきましょう。
では、第四回目では中国との関係をやっていこうと思います。
- 本格的な稲作の開始
- 金属器の伝来
- 争いの勃発
- 中国との関係の始まり
日本の歴史は中国の資料から学ぶ
弥生時代の日本には、文字がなかったためこの頃の日本の歴史については、中国の歴史書が頼りになります。
ちなみに、以前発掘作業から歴史を解明することを考古学と言いましたが、今回のように資料から歴史を解明することを文献史学といいます。
さて、中国の資料で弥生時代に書かれている歴史書は3つあります。
この3つの歴史書の内容が重要となりますので、しっかり覚えておいて下さい。
うろ覚えで申し訳ないのですが、センター試験などではそれぞれの歴史書に書いてある内容やその時の日本の状態を問う問題が多かったような気がします。
では、それぞれの中身について観ていきましょう。
『漢書』地理志の内容とその頃の日本
『漢書』地理志は、1世紀ごろ「前漢(ぜんかん)」の時代に書かれた歴史書です。 前漢とは、その頃、中国を収めていた国のことですね。
前漢の前は「秦(しん)」という国が収めていたのですが、無理な政治体制などからわずか15年で滅びたと言われています。
また、観光スポットで有名な「万里の長城」もこの時代に作られたという説もあります。
では、漢書地理志の中身を観ていきましょう。
夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり
分かれて百余国と為(な)る
歳時(さいじ)を以(もっ)て来たり献見(けんけん)すと云(い)う
出展:「漢書」地理志
1行目
【漢字】
楽浪:中国の楽浪郡
倭人:日本人
【意味】
楽浪郡の海の向こうに日本人が住んでいる。
2行目
【漢字】
百余国:100あまりの国
【意味】
100あまりの国に分かれている。
3行目
【漢字】
歳時:貢物(みつぎもの)
献見す:定期的に
【意味】
貢物をもって、定期的に挨拶にくる
まとめてみましょう。
漢字の意味さえ分かれば、簡単ですよね。
この頃の日本は、高地性集落などができ始めた時代であることを覚えておきましょう。
『後漢書』東夷伝の内容とその頃の日本
中国を収めていた「前漢」が滅びると、次は「後漢(ごかん)」が中国を収めます。
『後漢書』東夷伝は後漢の時代に書かれたものなので、『後漢書』という事を覚えておいて下さい。
さて、この歴史書には、紀元1世紀〜2世紀の日本について書かれています。
内容を見てみましょう。
建武中元(けんむちゅうげん)二年、倭の奴国(なこく)、貢を奉じて朝貢(ちょうこう)す"使人(しじん)自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極(はて)南界なり。光武、賜(たま)ふに印綬(いんじゅ)を以(も)ってす。安帝(あんてい)の永初元年(えいしょがんねん)、倭国王帥升(すいしょう)等、生口(せいこう)百六十人を献じ、請見(せいけん)を願ふ。桓霊(かんれい)の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐(あいこうばつ)し歴年主なし。
1行目
【漢字】
建武中元二年:西暦57年(1世紀のことです)
倭の奴国:日本の奴国という国
朝貢す:貢物をもって挨拶にくる
【意味】
西暦57年に日本の奴国が、貢物をもって挨拶にきた。
2行目
【漢字】
使人:使者
大夫:中国でいうところの大臣
【意味】
使者は自分のことを大臣といい、日本のは南の果てにあると言った。
3行目
【漢字】
光武:後漢の王様の光武帝
印綬:金と組紐
【意味】
光武帝は、金と組紐を使者に与えた。
4行目
【漢字】
安帝の永初元年:西暦107年
帥升:日本人の名前
生口:奴隷
【意味】
西暦107年。帥升という人物は、奴隷160人を献上し、安帝に会えるようにお願いした
5行目
【漢字】
桓霊の間:「桓帝、霊帝」の時代(146年〜189年)
倭国大いに乱れ:日本で争いが起こり
暦年主なし:長年国を治める者がいなかった。
長くなりましたので、まとめましょう。
- 西暦57年に日本の奴国が、貢物をもって挨拶にきた。
- 使者は自分のことを大臣といい、日本のは南の果てにあると言った。
- 光武帝は、金と組紐を使者に与えた。
- 西暦107年。帥升という人物は、奴隷160人を献上し、安帝に会えるようにお願いした。
- 桓帝、霊帝の時代に、日本で争いが起こり長年国を治める者がいなかった。
1世紀から2世紀は、鉄製農具が広まり始めた時代ですよ。
さて、3行目にある光武帝から渡された印綬。これは中国の役人が持っていた印鑑のことです。すなわち、これを渡されたと言うことは、中国の役人であることを認められたということです。
ちなみに、「 漢委奴国王(かんわなこくおう)」と掘られた金印が福岡県の「志賀島(しかのしま)」で見つかったのですが、この時の印ではないかと言われています。
『魏志』倭人伝の内容とその頃の日本
3世紀になると、中国では「後漢」が滅び、三国時代に突入します。三國無双などをプレイしている人には、馴染み深い「魏(ぎ)」「呉(ご)」「蜀(しょく)」の時代ですね。
さて、この頃の日本は、この三国の中の「魏」と交渉を持ちます。だから、「魏志」倭人伝の内容が日本に伝わるのです。
この頃の日本を治めていたのは「邪馬台国(やまたいこく)」です。そのトップが、みなさんもご存知の通り「卑弥呼(ひみこ)」ですね。
1つ前の『後漢書』東夷伝に倭国大乱という言葉が入っていたと思いますが、これを納めたのも卑弥呼です。卑弥呼は宗教的な力を駆使し争いを納たとされています。この力を「鬼道(きどう)」と呼びます。つまり、呪術のことです。
先程、邪馬台国は魏と交渉権を持つと書きましたが、この理由がわかるでしょうか?
この時代、日本よりも中国の方が位が高い、強い国でした。ですから、邪馬台国としては日本を納める上で、バックアップが欲しかったのだと仮定することができます。
現代で言う、不良が喧嘩に負けた時に「俺のバックには〇〇さんがついってんだからな」と言った感じでしょうか。
また、この時代中国大陸でも三国で争いをしています。ですから、日本が魏の下っ端になってくれるのは都合が良かったんですね。
さて、魏は邪馬台国と良い関係を築くために、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えます。
さらに、「金印紫綬(きんいんしじゅ)」という印鑑の中でも最も良いもの与え、「銅鏡(どうきょう)」を100枚与えたとされています。
銅鏡と言うのは、鏡のことです。この時代は、川の水に顔を写していたと言われる時代ですから、鏡を貰えるということは、よっぽど期待されていたのでしょう。
卑弥呼の後継者「壱与」の登場
卑弥呼がなくなった後、国を納める王として男の王が立ちます。しかし、この王には、呪術的な力が備わっていなかったため再び、争いが起こるようになります。
そこで、卑弥呼の親戚である「壱与(いよ)」が女王が立ちます。
壱与には、卑弥呼と同じくらいの呪術的な力があったため、国の乱れは収まったとされています。
まとめ
第四回目では、日本と中国の関係について見てみましたが、いかがでしたでしょうか。
勉強して見ると、こんなにも早くに外国との関係ができていたのかと驚かれると思います。
こうしてみると、日本史も面白いものですね。
第三回 弥生時代〜金属器の伝来と争いの勃発〜
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「読むだけ日本史」の第三回目を始めていきます!
前回は、弥生時代の代表的な特徴である「稲作の開始」と、それに伴う道具の変化について見ていきました。
第三回目では、弥生時代のポイント「2番」と「3番」を見ていきたいと思います。
- 本格的な稲作の開始
- 金属器の伝来
- 争いの勃発
- 中国との関係の始まり
金属器の伝来
弥生時代になると、「青銅器(せいどうき)」「鉄器(てっき)」が伝来します。
この二つを金属器と呼び、紀元前2世紀ごろに朝鮮半島から北九州北部にもたらされたと言われています。
「青銅器と鉄器」
漢字だけで見てみると、いまいち何が違うのかは分かりくいですよね。
実は、同じ時代に入ってきた鉄器であってもそれぞれ使用する用途は異なっています。
次は、青銅器と鉄器の違いについて見てみましょう。
青銅器と鉄器の違いってなに?
青銅器と鉄器の用途の違いについて確認してみます。
青銅器:祭りや祭事に使用
鉄器 :農具や武具として使用
青銅器は、お祭り用。鉄器は農具や武具として使用されていました。
青銅器は、鉄器と比べ強度が弱いという特徴があります。
農具や武具は、固いものに対して使う道具なので強度の強い材料を使わないと道具として成り立ちませんよね。
だから、強度の強い鉄器は農具や武具として、青銅器はお祭り用の道具として使用されるようになりました。
さて、学校で配布される資料集に出くる青銅器ですが、みんな青いですよね?
青銅器という字には「青」が入っていますが、材質自体は「銅」なので、作られたばかりの色は10円玉の新品のような色をしていますので注意して下さい。
青銅器ってどんな時に使われていたの?
弥生時代になると、お祭りが行われるようになりました。
お祭りと言っても、当然現代のようなお祭りではなく、神様に感謝するお祭りです。
この時代、重要な食料となっているものが「お米」ですよね?
ですから、稲作を開始する前は豊かな収穫を願って、収穫後はお米を収穫できたことに感謝してお祭りを開いていました。
この時に、使用されていたものが「青銅器」です。
青銅器には
- 銅鐸(どうたく)
- 銅剣(どうけん)
- 銅矛(どうほこ)
- 銅戈(どうか)
などが使用されていました。
※青銅器の資料は、準備中です。
争いの勃発
各地で稲作が開始されると、争いが起こるようになりました。
「えっ?稲作で食生活が安定してるのに争いが起こるの?」なんて思う人もいるかもしれませんが、実は争いの原因がこの「稲作」にあると言われているのです。
争いが起こった経緯
では、どのようにして争いが起こったのでしょうか?
稲作で争いが起こった流れは以下の通り。
- 人工の増加
- 領土の拡大
- 米の奪い合い
これが原因だと考えられています。
食生活が安定すると、死者が減るため人工が増加します。
人工が増加すると、食料が今以上に必要となるため、田んぼの領土を拡大しなくてはなりません。
領土を拡大するだけなら、まだ良かったのですが。
稲作には大量の水が必要となりますよね?
そうなると、田んぼに水を引き込むために川の流れをせき止めて田んぼに水を流すようになります。
そうすると今度は、河口付近の田んぼには水が届かなくなってしまいます。
水がなければ、稲が育ちませんので稲をたくさん作ってある集落からお米の奪い合いが始まるのです。
小国の成立と分立
お米の奪い合いが、きっかけとなり各地では集落が結成されるようになりました。
当然、人数が多いほうが戦いに勝利する確率は増えますからね。
また、この時に作られた集落は、防御機能を備えた集落が一般的でした。
この集落を「環濠集落(かんごうしゅうらく)」「高地性集落(こうちせいしゅうらく)」と呼びます。
環濠集落:集落の周りに深い堀を設け、敵の侵入を遅らせる機能をもつ。
高地性集落:見晴らしの良い丘陵の上にある集落。敵をいち早く発見できる。
どちらの集落も防御敵機能が備わっている事が分かると思います。
さて、争いが起こると「勝利する集落」と「負ける集落」が出てきます。
勝利した集落は、負けた集落を取り込んで「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりを持つようになりました。
このような、「クニ」が各地で出現したため今度は、「クニ」どうしの対立が起こるようになります。
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弥生時代の墓制
争いの結果多くの人が、亡くなります。
ここでは、弥生時代の人々がどのような埋葬法やお墓を使用していたのかを見ていきます。
弥生時代のお墓は4つです。
- 甕棺墓(かめかんぼ)
- 支石墓(しせきぼ)
- 方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)
- 墳丘墓(ふんきゅうぼ)
甕棺墓から墳丘墓になるにつれて、規模が大きくなります。
権力による支配が、続き徐々に自分の権力をお墓の大きさでも示したいという思いが募り、徐々に大きいお墓になったようです。
※このお墓の具体的な違いや埋葬方法については別途記事を作成する予定です。
埋葬方法の違いについてですが、縄文時代は「屈葬(くっそう)」という死者の身体を折りたたんだ埋葬方法をしたいたのに対し、弥生時代は「伸展葬(しんてんそう)」という死者の身体を伸ばして埋葬していた事を覚えておいて下さい。
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まとめ
第三回目は、金属器の伝来から争いの勃発までをみてきました。
物事が起こるには理由があります、新しく始まった何か(この時代は稲作)がきっかけで争いが生まれることは少なくありません。
物事が起こった原因を理解していれば、芋づる式に答えを導くことはできるはずです。
次回は、中国との関係の始まりについてやっていきます。
それが完了したら、今度は弥生時代の資料について見ていきたいと思います。
第二回 弥生時代〜稲作の開始とそれに伴う道具の変化〜
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「読むだけ日本史」の第二回目を始めていきます!
1万年近く続いた縄文時代に終わりが来ると弥生時代が到来します。弥生時代の大きな特徴と言えば「稲作の開始」。
つまり、「食料を採取する時代」から「食料を生産する時代」へと変化した時代でした。
また、この時代は縄文時代と同様に土器の特徴によって区別され前期、中期、後期に分けられることも覚えておきましょう。
本格的な稲作の開始
弥生時代になると、本格的に稲作が開始されます。(食料生産の時代)
実は縄文時代の後期には稲作が始まっていたのですが、稲作に本腰を入れ始めたのは弥生時代からなんです。
現代の稲作を想像すると分かると思いますが、田んぼには大量の水が必要です。
人工的にを田んぼに水を引いてくる仕組みを、灌漑施設(かんがいしせつ)と言うのですが、弥生時代前期には、この施設を作る技術がありませんでした。
そこで、弥生人は考えて湿地に種を蒔くことにしました。
湿地と言うのは、土に水分が含まれている水はけの悪い土地です。この湿地で作った田んぼを「湿田(しつでん)」と言います。
湿田に種を蒔けば、わざわざ水を引いてこなくても稲が育ってくれます。しかし、ただ1つ問題があります。
そもそも湿地は、日が当たらず水はけの悪い場所なので稲が育ちません。ですから、弥生時代の中期・後期になると川の近くに灌漑施設を作り日当たりの良い乾いた田んぼで稲作を開始するようになります。
この乾いた田んぼのことを「乾田(かんでん)」と言うので、覚えておきましょう。
稲作用の道具の発明
文化が増えると道具が増えます。ここでは、稲作用に開発された道具について見ていきます。
まずは、稲作の流れを見ていきましょう。稲作の流れは現代と変わらないのでイメージしやすいですね。
- 耕す
- 種を蒔く(田植え)
- 収穫
- 脱穀
難しく考える必要はありませんよ。
細かくみていきましょう。
畑を耕す
種を蒔く前に、まずは田んぼを耕す必要があります。
土が固い状態では、植物は根を張れませんからね。
さて、この田を耕す時に使った道具を、「鍬(くわ)」と「鋤(すき)」と言います。
道具は、年数を重ねる毎に日々進化していきます。弥生時代は、金属器が伝来したこともあり、前期では「木製農具」を使用していたのに対し、後期では「鉄製農具」に変化するので覚えておきましょう。
木から鉄に変わっただけなので、簡単ですね。
種を蒔く(田植え)
田んぼを耕したら次は、種まきです。
これも、弥生時代の「前期」と「中期・後期」では方法が違います。
前期では、湿田に直接種をまく「直播き(じかまき)」が行われていましたが、中期・後期では「田植え」が行われていました。
このような違いが生まれた背景には、稲の生産性が絡んできます。
直播きの場合、稲と一緒に雑草が成長し本来は稲に当たるはずだった陽の光が雑草に取られ稲の成長が妨げられてしまいます。
田植えの場合だと、稲がある程度成長してから植えるので、雑草より稲の方が背が高く陽の光を独り占めできるのです。
この時代、食べ物が作れなくては死んでしまいますので、より生産性の高い田植えをする必要があったのです。
収穫
稲が育ったら、いよいよ収穫です。
まずは道具と収穫方法を確認をしてみましょう。
弥生時代前期は石でできた「石包丁」を使い「穂首刈り(ほくびがり)」で収穫を行ないました。穂首刈りとは、稲の「穂」の部分のみを収穫する方法です。
石包丁は、石でできているので稲の根本から刈り取るのは難しかったんですね。
一方、弥生時代の後期には「鉄鎌」を使用しているので、現代と同じように根本からザクっと収穫することが可能になりました。
根本から刈り取ったほうが、米を落とさずにしっかりと収穫できるのでこの方法に変わったのだと思います。
脱穀
脱穀という言葉は、ご存知でしょうか?
今はあまり馴染みがありませんが、脱穀とは「稲についた籾殻を外す作業のこと」を言います。
お米を食べる前には脱穀しないと食べれませんよね。
そこで、脱穀用の道具「竪杵(たてぎね)」「木臼(きうす)」が誕生しました。この道具に関しては、鉄製農具にはならないので注意してください。
稲作をサポートする道具の開発
次は、稲作をスムーズに進めるための道具を見てみましょう。
田下駄(だげた):田んぼに足がめり込まない用にするための道具
大足(おおあし):肥料を土に踏み込むための道具
田舟(たぶね) :稲を乗せて運ぶための道具
高床倉庫(たかゆかそうこ):稲を保管するための倉庫
高床倉庫は、刈り取った稲を保管しておく倉庫ですね。ちなみにどうして高床にしているかと言うと、地面に近いと湿気で稲がカビてしまったり、ねずみが侵入してしまったりするからですね。
柱の所にねずみ返しがついていたことも、思い出しておきましょう。
弥生時代道具まとめ
まとめ
いかがでしたでしょうか?
まずは、稲作の開始からそれに伴う道具の変化までをみてきました。
何かが始まると、何かが増える。歴史はこのようにして変化してきました。
新しい文化が始まったら、その文化には何が必要かを考えてみると勉強が捗るのではないでしょうか。